2008年04月30日

「つくられた」商材としての価値 〜スーパーセブンのその後〜 F

今回は、可能性としてのスーパーセブンについて、私の考えを掲載します。



■なぜ私は「スーパーセブンは存在しない」と書いたのか

「スーパーセブンは存在しない」と題した記事を掲載した頃、私は天然石業界の曖昧さと曖昧さを利用した商法に、大きな疑問を感じていました。当時の私にとって「スーパーセブン」は、まさに多くの疑問がそのまま形になった天然石だったのです。スピリチュアルな側面を持つ商材ですから、扱いが難しいことはわかっていました。けれども当時、すでにスーパーセブンはスピリチュアルの枠を大きく外れて利益を生み出している商材でもありました。

もちろん、記事を掲載する前段階の準備として、スーパーセブンを取扱われている業者さまへの質問もさせて頂きましたが、それらのリサーチを通して私の疑問は解決するどころか、より大きくなる一方でした。中でも一番大きな疑問は、「ある(はず)ある(はず)と言うわりに、誰もその存在を実証できないのはなぜだろう」というものでした。

とは言っても、私も最初からただただ可能性を否定していたわけではありません。「スーパーセブンはあるはず」と仮定をして商品を探してもみました。けれども、ないものはない。どこを探しても現物を見つけることはできなかったのです。

業者さまもその存在を立証できない、私も探し出せない。鉱物や宝石の知識をお持ちの方に相談して答えが出るような対象でもない。ではどうするか?

次に取れる実際的な方法論として、私は「ない」と言いきることを選びました。これだけ問合せても「ない」探しても「ない」のだから、本当に存在するというのなら、あとは「ある」とされる方々に実物を提示してもらうしかない。それ以外に検証を先に進める方法がなかったのです。


ちなみにこの件に関しては、存在の可能性を重視して人知の及ばない世界の話を持ち出される方もいらっしゃるようですが、どうぞ今一度考えてみてください。可能性だけを重視して「証明の必要なし」とするならば、それこそ100種類の要素が含まれた天然石だって「存在してしまう」のです。1000だって10000だって「あり」になってしまうのです

私たちが生きている世界では、あり得ない何かを信じたからといって、それだけを理由に罰せられることはありません。同時に、信じているという理由だけで、客観的な証明が成されていないものを「ある」と結論づけることも不可能なのではないでしょうか。




■スーパーセブンは存在する、と論じるに必要な材料とは

最近頂いた閲覧者の方からのメールで、半年前に私が書いた「スーパーセブンは存在しない」という記事内容に対して、現在もまだ拘っておられる方がいる事を知りました。念のためその方の書かれている内容を確認させて頂きましたが、現時点では存在するしないについてのお話をさせて頂くことは不可能だと判断しました。

そのように判断した理由は、その方のご意見が感情論の域を出ていないこと、またご自身では何ひとつ検証作業をされておらず、ほとんどがインターネット上の情報を寄せ集めたものに見えたからですが、もし私の判断に間違いがあればご指摘ください。
※その方はこのブログを良く見ていらっしゃるようなので、この場に記載させて頂きました。

余計なお世話だとは思いますが、スーパーセブンが存在する可能性を論じられるのであれば、まずはご自身の論を証明する材料を提示してください。この場合は「スーパーセブンの条件」を満たしている天然石を提示してくだされば結構です。そこからでないと話が先に進みません。存在を仮定できるだけの材料を提示してくだされば、今度は私がその材料に対して反証をすることも可能になるでしょうが、現時点では反証する対象がないため、それもできません。

万が一、含まれている要素と産出地が「スーパーセブン」と合致する天然石の存在を立証してください、とお願いすることすら理不尽だと受けとられるなら、そもそも「スーパーセブンは存在する」という論自体が、机上の空論の域を出ていないと言えるのではないでしょうか。




■「存在する」とは誰のための見解なのか

例えばこれが、スーパーセブンを提唱したヒーラーさんご本人との間に生まれた見解の相違であれば、私には反証不可能な場所が生まれるでしょう。そのことは、私も理解しています。そのヒーラーさんが持っている「人とは違う能力」を信じ、その方が提唱し販売されている「スーパーセブン」を、証明不可能な要素ありとわかった上で購入されるのであれば、それはもう、他人が口をはさむことではありません。

けれども、現在スーパーセブンを販売されている業者さまや、スーパーセブンの存在を積極的に肯定される方、私がその存在を否定することに強い難色を示されている方々は、提唱者ご本人でもなければ、現時点における提唱者本人の意向を代弁できる立場にもない方ばかりです。

そのような方々の主張の軸を成しているのは主に、過去「スーパーセブン」なる天然石の存在に言及したヒーラーさんがいたこと、人知が及ばない世界が可能性に満ちていること、そして見たことや所持したことはなくてもその存在を信じているから、ということになるのでしょうが、肝心な問題であるはずの「商材として扱われているスーパーセブンは、過去ヒーラーの方が提唱したスーパーセブンとはイコールではない」という私の見解には、なかなか触れてくださいません。


そもそも「ある」という見解を誇示される方にこそ尋ねてみたいのですが、人の心や精神的な世界と深い関わりを持つ生き方を選ばれた提唱者ご本人が、このような現状を良しとされると本当に思えるのでしょうか。

ちなみに「このような現状」とは、自分が過去に言った言葉の一部を拡大解釈され、転用され、商売に利用され、場合によっては悪用され、結果としてそこに、傷つけられる人間が生まれてしまう、ということを指しています。




■情報が無責任に広がった責任は誰にある?

スーパーセブンについての情報を追う過程で、私は最初の提唱者であるヒーラーさんご本人が、なぜいつまでもこの件を見過ごしていらっしゃるのだろう、と不思議に思ったことがありました。

自分の名前が、自分が関与していない場所で、他人の都合に合わせて、他人のいいように使われている。これはご本人にとって、とても不快なことだと思います。私自身(規模を極ごく小さくした形ではありますが)まったく言った覚えのない言葉が、まるで私の言葉であるかのように書かれている場所に遭遇し、びっくりした経験がありますが、決して快い経験ではありませんでした。

私の場合、これらの「言った覚えのない言動」は匿名性の高い場所(掲示板やブログ、コミュニティーなど)に記載される事が多く、心配した閲覧者の方々が「ここに掲載されてますよ」という主旨のメールを下さるので知ることができるのですが、匿名性の高い場所である分、言っていないことを言っていない、違うものを違うと訂正することもできません。

このような経験を通して、改めてインターネットを介してやり取りされる情報の不確かさやいい加減さを知ると共に、一度広がってしまった情報は、例えそれが間違ったものだったとしても、必要な訂正をされないままで存在し続けるのだということを知りました。

幸い私にはこのブログがあり、自分の主張を自分の主張のまま公開することができます。また、ご覧になった方が最終的に選ばれる結論が、私の見解と違うものであっても、真逆にあるものであっても、それが間違った(と私が感じる)方向に情報を大きく操作してしまうものでなければ、何の問題もありません。

もともとすべての方が私の考えに賛同してくださる、などという都合のいい願望は持っていませんし、天然石を購入する立場の方々から見て、私のお伝えする情報や個人的な疑問、それに対する検証結果など見る必要もない環境になってくれれば、それに越したことはありません。


けれどもこれは、私のような小さなブログしか運営していない人間だから言えることであって、スーパーセブンを提唱したヒーラーさんのように、ここまで大々的に利用された場合、そこから受ける不利益や精神的な負担は決して小さくないはずです。だからこそ、それらを止めるなんらかの手立てがあるのではないか、もしヒーラーさんが何らかの手をうってくだされば、末端の消費者が受ける不利益も減ってくれるのではないか、などと都合の良いことを考えもしたのですが、スピリチュアルな範囲に存在する問題は、そこから受ける不利益を回避することもまた難しいのだと知りました。


以下に記載する内容は、スーパーセブンについての情報を追う中で、提唱者であるヒーラーさんと現在も直接の繋がりをお持ちの方から聞かせて頂いたお話をもとに、私が感じた内容をまとめたものとなります。
 ※私にこのような話をした覚えがあり、かつ自分の意図とは違う書かれ方をしていると感じられた場合は、お手数ですがメールにてご連絡ください。よろしくお願い致します。




■「可能性」が持つ危険性

「スーパーセブン」が他人の利益の為に不当に利用されたのは、何も日本ばかりではなく、アメリカでも同様の出来事は珍しくなかったのだというお話を聞かせていただいたことがあります。

スーパーセブンが持つ可能性には、屑石を宝の山に変えてしまうほどの力があります。ですから必然的に、宝の山を手に入れたいと望む人間のかっこうの餌食にもなってしまうのでしょう。これは何もスーパーセブンに限ったことではありません。その他の天然石でも宝石でも鉱物でも。存在が利益を生み出すものには、その利益にあやかろうとする人間の存在もつきものなのです。

そのような無法者の存在が明らかになる度、提唱者であることを理由にヒーラーの方が対処を求められるのわけですが、スーパーセブンの特徴である「全てが含まれていなくても同じ場所から産出されたものであればOK」という条件は、無法者に有利な逃げ道となってしまいます。誰もが本当のことを話してくれる理想的な世界であれば問題はないはずの「その石である条件」が、悪用を止められない理由に成り代わってしまうのです。

実際アメリカでは、ご本人が悪用を止めるための働きかけをされたこともあるのだと聞きました。けれども多くの場合、時間と労力をかけて働きかけをしても、結果的にご本人が疲れ傷つくだけでしかなかったようです。

まさか、提唱したご本人がその商材の悪用を止められないなんて、と思いませんか?

私は思いました。もともと他の人にはない能力を持っているヒーラーさんが提唱した、という前提でなりたっているスピリチュアルな商材なのですから、提唱者ご本人の意見や意向が絶対であっても不思議はないと思っていたのです。むしろご本人が働きかけをしても止められない現実があるとは思ってもみませんでした。


けれども私自身、このようなブログの運営を続けていると、あたりまえの事が当たり前には通らない現実を嫌というほど思い知らされる機会や、意気消沈せざるを得ないような出来事に数多く出くわします。例えば、購入する商品に対して不安や疑問を持つことや問合せをすることが、イコール意地の悪い非常識な人間性である、と判断されてしまり、たった1〜2回の問合せをしただけで「問題ありの客」としての烙印を押され、時には取引さえ拒否されてしまうのです。


天然石に対して問合せをされた経験や、処理などの質問をされた経験がある方にはわかって頂けると思うのですが、天然石を売買する世界では、まっすぐ投げた疑問に対する回答が、消える魔球となって戻ってくることが少なくありません。しかも消える魔球を投げた相手は、大抵の場合がちがちの防御体制を取っているか、悪い場合感情的になっていて、質問の修正程度では話を続けることすらできません。

接客業を営んでおきながら、顧客からの問合せ対してあっさり逆切れる。この姿勢に対しても理不尽さを感じずにはいれらませんが、そのような意見が受け入れられる余地もすでになく、いさかいを避けようと思うなら、最初の疑問は何ひとつ解決しないままでも黙って引き下がるしかありません。

自分が購入する商品です。嫌でも自己責任を持たねばならない世の中です。購入する商品や購入した商品に対して何らかの疑問を持った時には、プロで「あるはず」の販売業者さまに問合せて情報を得る自由と権利と責任が「あるはず」です。「あるはず」なのですが……

「こうあるべきはず」のものが本当にこうあってくれれば、私はきっとこのブログを立ち上げることなどなかったでしょう。




■「可能性」ではなく「証明」に重きをおく理由

ヒーラーさんが受けた傷やご苦労にはとうてい及びもつかないでしょうが、私自身これまでに何度も「なぜ? どうして?」と途方に暮れた経験はあります。そして、そのほとんどが「本来論じるべき内容とはかけ離れたところで起こってしまう」というのが、残念ながら現実です。

これは私の推測ですが、スーパーセブンを提唱したヒーラーさんが現在スーパーセブンから手を引かれている一因には、これらのトラブルも少なからず関わっているのではないかと思います。自分の意図とはかけ離れた場所で商材がひとり歩きして、結果として購入した人間が不利益をこうむっている。人間の心や精神と深く関わる分野に身を置き、そこに誠実さや豊かさを望むならば、手に追えなくなるほどマイナス方面にひとり歩きした商材からは、いっさいの手を引くことが、できる限りの方法だと言わざるを得ないのかもしれません。

もし、提唱者なのに不誠実(無責任)だと感じるならば「もし自分だったら何ができるか」と問うてみてください。理想論とはかけ離れた場所で今、自分なら何ができるか。私は記事を書くとき、記事の案をまとめるとき、何度も何度もこの問いかけを自分にします。


私は常々、そこから利益を得ている人間には得ていない人間とは違う責任が生じると書かせて頂いていますが、反面、自分ならば120%不可能だとわかっている要求を相手に押し付けることは避けたい、とも考えています。だからこそ鑑別用の機材を購入し、鑑別という方法論が持つ可能性を、自分でも学んでいます。

正直なところ、ブログを立ち上げた当時でさえ、私は自分が鑑別について、機材を購入してまで勉強をすることになるとは考えてもいませんでしたし、いち消費者のままで疑問が解決されていたら、そちらの方が楽だったし良かったと思っています。

けれども現実はそうそう甘くはなく、「そんなに知りたいなら自分でやればいいでしょう」という主旨の回答を頂くことが多くなり、同時に「鑑別しても別に保証ができるようになるわけじゃないですよ」とあしらわれることも多くなり、このままでは打てる手がない状況にまで追い込まれた為に、ダメでもともとを覚悟の上で、取りあえずできるところまで努力しようと考えたのです。

私は本来とても怠け者な性分ですので、もし私以外の誰かが変わりに答えを出してくださるなら喜んでお任せしたいのですが、今のところ自分でやるしかないので自分でやることにしています。

ちなみに、私が自分で鑑別機材をそろえるきっかけとなった業者さまからの回答やご意見は、私が作り出した架空ではなく、本当に存在しています。私としては本当に残念なことなのですが、この部分を疑うメールを頂くことがありますので、でっちあげた作り話ではないという証明のために、業者さまからのメールをひとつ転載しておきます。
 ※必要であれば業者さまのお名前を出すだすことも可能ですが、今回の場合、お名前を出して不利益をこうむる可能性があるのは業者さまの方ですし、個人的にはそこまでする必要はないのでは?と考えて掲載しませんでした。


・ある業者さまから頂いたメール(一部抜粋)

〜前半分省略しています〜

人を試すような行為は悪意をとても強く感じます。
また、された人間にとってとても不愉快な気持ちを与えます。
今後のお取り引き、メールでのご質問もお断りさせて頂きたいと思います。

〜中略〜

天然石について、人それぞれパワーを求めたり、美しさを求めたり、
求める物は様々です。○○様の求める「天然石」がどういう基準なのか、
何処で線を引いているのか、ブログを読んでもはっきりした事が
読み取れませんでした。

ブログを読んで伝わってきた事は、
「お店の人がきちんと最後まで対応してくれなかった」
「私の希望する返事が返ってこなかった」
「脅迫者あつかいされた」
などのグチを掲載したブログに読めました。
この様にネガティブなブログを読んだ読者は建設的な方向に動いてくれると思いますか?

「代理人を立ててでも」などの言葉や、
「お取引後にトラブルを起こすような事態は、
私としましても『避けたい』と考えておりますので、」
のメールの言葉は、最初からトラブルを発生させる事を前提として話が進んでいます。
人を動かす簡単な方法は、トラブル発生を避けるように仕組めば楽です。
しかしこの方法で「消費者にとってプラスになるお店」が増えると思いますか?
トラブルを避けるために仕方なく対応させる事は出来ても、
良いお店を増やす事は出来ないと思いませんか?


最後になりますが、石の処理の詳細を調べるのはとても難しい事だと思います。
購入先に情報を聞いても、その前の業者ですり替え等のトラブルが
発生しているかもしれません。
もし出来るのであれば、○○様がオークションに出品される商品全てについて、
ご自分で信頼できる鑑定書を付けて出品される事をお勧めいたします。
○○様が出品者(販売者)となりますので、購入先に聞いて対応するのではなく、
ご自身でご自身の納得が行く結論を出すべきではないでしょうか?




ちなみに、この業者さまに対して私が送ったメールは2通、内容は以下の通りです。

一通目(挨拶文は省略しています)

現状、仕入れ元で「天然です」と太鼓判を押された商品であっても、
実際に鑑別に出してみると、染色品であったり、
また成分自体に相違がある石が存在するようなのですが、
それらに関して御社では、どの程度把握をされていますでしょうか。
例えば仕入れた石に対する何らかの自社基準
(抜打ち鑑別など)を設けていらっしゃいますか?

業者さまの中には、仕入れ元の情報を「全て正しい」と仮定して
販売をされているところが多いことを知り、
今回このような質問をさせていただきました。

ご回答いただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願い致します。


2通目

△△さま

丁寧なお返事ありがとうございます。
お手間を取らせて申しわけありませんが、あと二つ質問をさせてください。

まず一つめですが、仕入れた石に対する判断をされる時、
染色品や着色品の見極めにはどのような方法を用いられていますでしょうか。

次に二つめの質問ですが、
今後私が御社の商品を購入希望した場合、お取引をして頂くことは可能ですか?
それとも取引自体を断られてしまうでしょうか。

お取引後にトラブルを起こすような事態は、
私としましてもできる限り避けたいと考えておりますので、
このような質問をさせていただきました。
どうぞよろしくお願い致します。



この2通目のメールに対して頂いた回答が上記の業者さまからのメール文となります。



■天然石を鑑別することは本当に非常識か?

そもそも、天然石の世界に鑑別という証明手段を持ち込むこと自体を非常識だと一蹴される方や、拒否反応を示される方がいらっしゃいます。私も何度かそのような方とお話をさせて頂きましたが、「宝石じゃないんだから」「天然石なんだから」とお話をされることが多く、結局のところ証明を必要としない理由は、宝石よりも販売価格が低いことにあるのだな、と感じました。

では鑑別という方法論を除外して、いったい何が証明されるかといえば、今のところ何も証明されません。

他に証明手段がないなら、今ある手段を有効的に利用しても良いのではないでしょうか。天然石はすでに証明が不必要な商材ではない、と私は考えています。特に中国を経由する商品が多くなっている昨今、その危険性は決して無視できるものではありません。



■今日のまとめ

可能性だけを論じるならば、確かに天然石には無限の可能性があるでしょう。というよりも、天然石だけではなく、全てのものに人知が及ばない領域が存在し、無限の可能性があり得るのです。ツチノコも宇宙人も、一時期癌にきくとされたアガリスクも。証明さえされなければ、様々な可能性が否定できないものとして残ります。

けれども、ただの浪漫ではなく、商材としてここまで広く出回るようになった以上「スーパーセブン」に対する証明は必要だと私は考えます。反対に存在する事実が証明できないのであれば、販売の方法を変えるか、もしくは値段をつけて販売などせず、個々人の浪漫の範疇に留めておくべきなのではないでしょうか。


■追加連絡です。
検査入院のため金曜日の更新はお休みします。次回の更新は来週の火曜日となります。


posted by isinohanasi at 00:16 | スーパーセブンは存在しない
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